「……? 先生、どうかしました?」
私の視線に気づいたらしい原口さんが、不思議そうに訊ねてきた。
「えっ? あ……、えっと……」
答えに詰まった私は、咄嗟に不自然ではないような言い訳を考えた。
「この原稿、今後改稿の必要とかは……?」
取ってつけたような言い訳だけれど。仕事に関することなら無難だろう。
「多分、ないと思いますよ。校閲部の人はどう言うか分かりませんが、先生の書かれる文章はいつもキッチリされてますから」
「そうですか! よかった」
私の過去作はどれも(といっても三作だけだけれど)、一度の改稿も言い渡されることなく出版されている。だからきっと、今回も大丈夫だ。原口さんが「大丈夫だ」って言ってくれたんだから。
「――さて、パソコン談義はまたの機会にするとして。原稿は頂いたので、僕はこれで失礼しますね」
原口さんの仕事は、担当作家から原稿を受け取って終わりではない。一冊の本が刊行されるまでには、まだいくつものプロセスがあるのだそう。――編集者って大変な仕事だ。
「はい、ご苦労さまでした。すみません、お茶も出さなくて」
「いえ、気にしないで下さい。先生はお疲れでしょうし、僕も期待してませんから」
最後にS発言を残し、原口さんは洛陽社の〈ガーネット文庫〉の編集部へと帰っていった。
玄関先で彼を見送ると、私は何だかホッとしたような、ちょっとむなしような気持ちになり、はぁーっと大きなため息をついた。
……あれ? 私の中で何かが引っかかる。彼のイヤミ攻撃から解放されて、ホッとするのは分かるけど、むなしくなるのはどうして? まさか……。ウソでしょ!?
「私、原口さんのことが気になってるの……?」
苦手だと思っていた原口さんが、いつの間にか気になり始めていたなんて。 中学時代からずっと恋愛小説を書いてきたのに、自分の中の恋心の芽生(めば)えに気づかないなんて! 私って恋愛小説家失格かな?「じゃあ、私が今まで書いてたのって、一体何だったんだろう?」 私は作家として、ちょっと自信をなくしかけていた。 一応、私だって二十三年間生きてきて、恋愛をした経験くらいはある。……数(かぞ)える程度(ていど)だけれど。 だから、恋の始まりがどんな感じなのかはだいたい分かっているつもりだったし、作品を書く時もたいていはそれを参考にしているのだけれど。 そんな私も、苦手な異性が気になったことは今までに一度もなかった。 だからなのかな? 彼に心惹(ひ)かれていることに気づけなかったのは。 ――私はその後、簡単なものでブランチを済ませ、暇(ヒマ)を持て余していたので、改めて仕事部屋の本棚(だな)にある自分の著書(ちょしょ)を読み直してみることにした。 二年間の作家生活で出した本は、たったの三冊。これは決して多くない。 けれど私の場合、デビュー作の長編書き下ろし作品以外は雑誌〈ガーネット〉に連載されてから単行本化されることの方が多かったので、まあこんなものだろうか。「――う~ん、やっぱりないなあ。苦手な異性に恋する話……」 三冊とも読み終え、私はボヤいた。というか、なくて当たり前なのだけど。作者自身に書いた覚えがないのだから。「もう、どうしたらいいのよ……?」 今までなかった経験に、途方(とほう)に暮れる。 原口さんは私にとって大事な仕事上の相棒(ビジネスパートナー)でもある。そんな彼と、私はこの先どんな顔をして会えばいいんだろう? 誰か、相談に乗ってくれる人はいないものか? ……と私が思っていたら。 ♪ ♪ ♪ …… 机の上に移動させていたスマホが鳴った。電話の着信音だけれど、誰だろう? ちなみに、原口さんでないことは確かだ。彼からの電話はすぐに分かるように、専用の着信音を設定しているから。「――ん? 琴音(ことね)先生からだ!」 電話を下さったのは、私より七歳年上の先輩作家・西原(さいばら)琴音先生だった。彼女も私と同じく、〈ガーネット〉で活動されている。 私はいそいそと通話ボタンをタップした。「はい、巻田です」『もしもし、ナミちゃ
『あたし、締め切り明けて今日は予定もないし、ヒマなんだ。ナミちゃんも今日休み?』「はい。私も今日脱稿(だっこう)したんです。バイトも休みですよ」『そうなんだ? お疲れさま。ナミちゃんは原稿手書きだから、大変だったでしょ?』 琴音先生は私ができないパソ書きをバリバリやっていて、実はちょっと憧(あこが)れている。「ええ、まあ……。ところで琴音先生,実は今、私の方から電話しようと思ってたところなんです。ちょっと、相談に乗って頂きたいことがあって……」 自分から誰かに電話しようと思っていたところに、琴音先生からの電話。私にとっては〝渡りに舟(ふね)〟だった。 すぐさま思い立って、私は琴音先生にお誘(さそ)いをかけた。「――あの、琴音先生。もしよかったら、今日これから私に付き合って頂けませんか?」 彼女なら人生経験もそれなりに豊富(ほうふ)だろうし(……って言ったら失礼かな? でも、少なくとも私よりは豊富だろうから)、きっと何かいいアドバイスがもらえると思う。『相談? いいよ。じゃあ、神保町(じんぼうちょう)まで出てこられる? あたし今、そこのカフェにいるから、一緒にお茶しようよ』「はい! 今から電車ですっ飛んで行きますね!」 私がそう答えると、琴音先生はカラカラと小気味(こきみ)よく笑った。『……ハハハッ! そんなに急ぐことないから。うん、じゃあ後でね』 彼女の笑い声の中、電話は切れた。 そういえば私、何に対しての相談ごとなのか話してなかったけれど、琴音先生はちゃんと話を聞いてくれるかな? ――きっと大丈夫。彼女なら広い心で受け止めてくれる。「――さてと、着替えようかな」 私は開けるのが本日二度目のクローゼットを開けた。 朝は慌てて着替えたから、今の私の服装は部屋着とほとんど変わらない。カフェでお茶するだけにしたって、電車にも乗るのにこれじゃカジュアルすぎるよね。 とりあえずスカートはそのままで、トップスは白のノンスリーブと淡いピンクのコットンブラウスに替えた。襟足(えりあし)の部分をルーズにずらして今時(イマドキ)っぽくする。 ハイカットスニーカーを履き、キチンと戸締りをして、最寄(もよ)りの代々木(よよぎ)駅まで走っていった。 ――けれど、私はすっかり忘れていた。今日は土曜日で電車が混(こ)むことも、自分が人混みを苦手としている
* * * *「――琴音先生、お待たせしちゃってゴメンなさいっ!」 三十分後。私は洛陽社にほど近い神保町のセルフ式カフェの店内で、待っていて下さった琴音先生にペコッと頭を下げた。 今日は土曜日なので、満員電車が苦手な私は電車を二、三本遅らせた。そのせいで着くのが遅くなってしまったのだ。「ああ、いいって。気にしないでよ。あたし今日はヒマだって言ったじゃん? とりあえず、そこ座ったら?」 琴音先生はあっさり私のことを許してくれて、向かいの空(あ)いている席を勧(すす)めてくれた。 西原琴音先生はモデルさんみたいにスラリと身長が高くて、スタイル抜群(バツグン)。でも全く気取ってなくて、優しいお姉さんという感じの女性だ。 私はアイスカフェラテとガムシロップの載(の)ったトレーをテーブルに、バッグを椅子(いす)の傍(かたわ)らに置き、勧められた席に着(つ)いた。 琴音先生の前には、白いカップが置かれている。中身はカフェオレかな? 今は四月なので、温かい飲み物にしてもよかったのだけれど。私は猫(ねこ)舌(じた)なので、熱いのが苦手なのだ。「――それでナミちゃん。電話で言ってた相談ごとってどんなことなの?」 私が席に着き、落ち着くのを待ってから、カップを両手で持った琴音先生が話を促(うなが)す。「えーっと、実は……恋バナ……なんですけど……」「うん」 彼女が私の顔をまっすぐ見て〝聞く姿勢(しせい)〟に入ってくれたので、私は全てを話すことにした。 ずっと「苦手」だと感じていた原口さんのことが、気になっていること。彼のSな発言がちょっと楽しみになっていること。 でも、過去に経験したことがないから、これが〝恋〟なのかどうか自信がないこと。 これから先、彼にどんな顔をして会えばいいのか悩んでいること……。「――あの、まず一つ確認していいですか? これって〝恋〟……で間違いないんですよね?」「え、まずそこからなの? ……うん。それはもう〝恋〟で間違いないよ。原口クンのこと、異性として意識し始めてるんなら」「原口……〝クン〟?」 私は琴音先生の答えよりも、原口さんへの呼び方が気になった。 どうしてそんな親(した)しげな呼び方ができるんだろう? と思うのは、気にしすぎかな?
「ああ、ゴメンね! あたしの方が年上だからさ、ついつい馴(な)れ馴れしく呼んじゃうの。別に特別なイミはないから気にしないでね」 ……あ、そうか。琴音先生より原口さんの方が二つ年下なんだっけ。 でも彼女はオトナの女性だから、たとえ何かあったとしても、隠(かく)したりはぐらかしたりするのもうまそうで油断(ゆだん)できない。 とはいえ、私は別に彼女と原口さんとの仲を勘(かん)繰(ぐ)るつもりなんてないけど……。「――あ、話戻しますね。私、苦手な相手を好きになった経験なくて……。琴音先生、そういう経験ありますか?」 年齢(ねんれい)だけでもわたしより七つ年上なうえに、彼女は私より大人の色気もある。恋愛経験だって、確実に私より多いはず。 ――というか、訊(き)いてしまってから「私ってばなんて野暮(ヤボ)な質問をしてるんだろう」と思ったけれど。「苦手な人を好きになった経験? うん、あたしにも経験あるよ」「ほっ、ホントですか!?」 私は思わず,テーブルから身を乗り出す。こと恋愛に関しては百戦(ひゃくせん)錬磨(れんま)だと思っていた琴音先生に、苦手な男性がいたなんて……!「そんな驚(おどろ)くことかなあ? あたしだって、昔から男慣れしてたワケじゃないよ」 琴音先生は苦笑いしてから、私に経験談を話してくれた。「もう六年も前の話だよ。あたし、就職してから一年で今の会社に変わったの。その時の上司が、すごく苦手なタイプの男性(ひと)でね……」 彼女はテーブルにカップを置き、遠い目をしながら頬杖(ほおづえ)をついて話し始めた。「その人ね、あたしがヘコむくらい毎日仕事にダメ出ししてきたの。それも、なぜかあたしだけにピンポイントでね。正直、『なんであたしばっかり目のカタキにするの?』って思ったし、その人のこと苦手になったの。……でもね」「〝でも〟?」 気になるところで彼女の言葉が途切(とぎ)れたので、私は続きを促すように彼女を見つめる。 琴音先生はカフェオレをまた一口飲んでから、再び口を開いた。「ある時に分かったの。その上司は、部下であるあたしへの期待と愛情から、あたしにダメ出ししてくれてたんだって。――で、その時からあたし、その上司のことが気になり始めたんだ」「あ……」 彼女の話を聞いて、私はふと思った。もしかしたら、原口さんもその上司の男性と同じな
「……で、その人に想いは伝えられたんですか?」 私の問(と)いに、琴音先生は悲しげにゆっくりと首を振った。「伝えられなかった。……好きだったけど、相手は妻子(さいし)持ちだったから。その人の幸せな家庭を壊(こわ)すなんてできなかったし、あたしは想ってるだけで幸せだったからね」 失恋の悲しい思い出のはずなのに、話し終えた琴音先生はなぜかスッキリした顔をしている。 私には彼女が(もちろん私より年上なのだけれど)年齢よりずっとオトナの女性に見えた。「そうなんですか……」 そう言ってからアイスラテをストローですすった私は、別の質問をぶつけてみる。「ちなみに今、彼氏っていらっしゃるんですか?」 彼女は今もすごくモテるから、浮いた噂(ウワサ)の一つくらいはあるだろう。 ……正直、琴音先生と原口さんとの間(あいだ)に今何もないって信じたいだけかもしれないけれど。「今はいないなあ。っていうか、前の彼氏と二年前に別れて以来、あんまり長続きしないんだよねえ……。声かけてくる男はいるんだよ、もちろん」「ほえ~っ……。いいなあ。私にも琴音先生ほどの色気がほしいです」 願望が思わず口をついて出ると、琴音先生にフフッと笑われた。「何言ってんの。ナミちゃんだって十分(じゅうぶん)可愛(かわい)いし魅力的よ。さっきから、窓際(まどぎわ)の席のお兄さん、ナミちゃんのキレイなうなじに見入っちゃってるし」「えっ、ウソっ!? ……やだもう」 彼女が指さす席の方を見れば、確かに大学生くらいの若い男性が、私の首の後ろを凝視(ぎょうし)している。 私は慌てて自分の手でうなじを隠した。 ――というか、さっきから話が脱線しまくっているような……。 琴音先生もそのことに気づいたらしく、カップの中身をスプーンでかき回しながら話の軌道(きどう)修正をはかった。「――あ、ゴメン。話戻すね。……あたし、さっきふと思ったの。もしかしたら原口クンも同じなんじゃないかな、って。あたしが苦手だと思ってたあの上司(ひと)と」「……はい。実は私も同じこと感じたところです」 私の反応に、琴音先生は目を瞠(みは)った。 残念ながら彼女の上司にはお会いしたことがないけれど、その人の言動(げんどう)が原口さんと似ているなあと思ったことは事実だ。……まあ、その人にSっ気(け)があるかどうかは私の知ると
「うん、そうらしいの。偶然だろうけどね。でね、その中でナミちゃんが一番若いらしいの。だから、原口クンはナミちゃんに期待してるんじゃないかとあたしは思う」「私に期待……ですか?」 私は首を傾(かし)げた。それが本当だとしたら、一体どちらの意味での〝期待〟なんだろう? 作家として? それとも別の意味で……? 「ほら、若いうちなら努力次第(しだい)でパソコンだってどうにか覚えられそうでしょ? だから期待してるのかもよ? それに」 そこでまた一度カップに口をつけてから、琴音先生は続きを言った。「ナミちゃんの作品のよさを一番理解してくれてる味方は、他でもない彼でしょ?」 琴音先生ってスゴい。私の考えてること、全部お見通しなんだもん。だから。「……はい。そうかもしれません」 私は素直に認めた。ちょっと悔(くや)しいけどその通りだと思ったから。 確かに原口さんは口うるさいしSだし、イヤミったらしい時もある。でも、彼が私の小説を貶(けな)したことは一度もないし、ダメ出しだってめったにしない。 本当はもっと褒(ほ)めたいだろうに、ダメ出しも担当編集者の仕事だからとあえて厳(きび)しいことを言ってくれているのだと、私にも分かっている。 それはもちろん私のためなんだろうし、それこそが彼が私の小説を誰よりも愛してくれている何よりの証拠(しょうこ)だと私も思う。 けれど私は、やっぱり彼のことが苦手だ。
「琴音先生、人の感情って厄介(やっかい)ですよね」「えっ? どうして?」「苦手な人が急に気になり始めたり、そうかと思えば昨日まで好きだった人が急に嫌(きら)いになったり……。何ていうか、〝苦手・嫌い〟と〝好き〟の二つにハッキリ線引きっていうか、割り切れたらラクなのになあ、って」 この世の中で、移(うつ)ろいやすい人の感情ほど面倒(めんどう)なものはないと思う。もしも人の感情がキッチリ線引きできるなら、誰も悩んだり苦しんだりしなくて済(す)むのにな……。「そしたら私も、こんなに悩むことなかったのになあ、って。――あれ? 私何かヘンなこと言ってますか?」 私の話を聞き終わらないうちに、琴音先生が笑い出した。でも全然バカにしたような笑い方じゃなくて、楽しいことを発見した時みたいな笑い方、といえばいいのか――。「ううん、別に。いやあ、ナミちゃんって面白(おもしろ)いこと考えるんだねー」「……へっ?」「そりゃあ、何でも白黒(シロクロ)ハッキリ割り切れたら誰も悩まないよね。その方が気がラクだしさ。――でも、割り切れないから人って面白いんじゃないかな?」「はあ、なるほど……」 琴音先生の言うことは、実に深い。私と同じ小説家だけど、七年という人生経験の差はダテじゃないなと思う。私にはこんな考え方はできなかったから。「ねえナミちゃん。原口クンを好きになったこと、後悔(こうかい)してる?」「いいえ! 後悔なんて絶対にしません!」 私は強くかぶりを振る。それを見て、琴音先生は安心したように微笑(ほほえ)んだ。「そういうこと。ナミちゃんだって、厄介な感情があるから原口クンに惹かれたけど、それで後悔してないワケでしょ? だから人間は面白いんだと思うな」「はあ……」 琴音先生が言ったことは、私にとっては目からウロコだった。何だか心にかかっていたモヤが晴れてきた気がして、私はまだほとんど減(へ)っていなかったアイスラテを一気に半分くらいすする。 ――ところで、私には気になっていることがもう一つあった。「そういえば、根本(こんぽん)的な質問なんですけど。原口さんって独身なんですか? お付き合いしてる人は?」 琴音先生に訊くのは筋(すじ)違いかもしれない。でも、直接本人に訊ねる勇気があったら、私はこうして琴音先生に相談に乗ってもらう必要なんてないわけで。「独
「そうだ。琴音先生、私はこの先、あの人とどう接したらいいと思いますか? 『好き』って気づいたのが突然だったから、この先イヤでも意識しちゃいそうで……」 私だって、恋をしたことくらいなら何度もある。けど、どうも「好き」という気持ちがモロに顔に出てしまうらしいので、いつも相手に気持ちがバレバレになってしまう。 特に、今まで意識したことのなかった相手を好きになった今回は、会うたびに原口さんのことをヘンに意識して、いつボロが出るか私自身分からないから不安なのだ。「う~ん、そうだなあ……。急に態度を変えたら、原口クンに怪(あや)しまれると思う。だからあたしがナミちゃんなら、あえて今まで通りの態度で接するけど」「今まで通りに?」 私は首を捻(ひね)った。〝今まで通りの態度〟ってどんな感じだったっけ? 何も考えずにやってきたのに、意識してやろうとすると、今までどうやってきたのか思い出せない。「そう。まあ、〝あたしなら〟の話だけど。――どう? ナミちゃん、できそう?」「あんまり自信ないですけど……」 私は考えてから、残りのアイスラテをストローでズズズッとすすった。――あんまり上品な音じゃないなと自分でも思った。「何とか頑(がん)張(ば)ってみます」「そっか」 笑顔で意気込(いきご)む私を見て、琴音先生もホッとしたようにホットカフェオレを飲んでいた(あっ、なんかダジャレみたいになっちゃった)。「――そういえば、琴音先生はどうして今日私に電話下さったんですか?」 今更(いまさら)だけれど、私は彼女に訊ねてみる。 あの電話がなければ、私は今頃まだ部屋で一人、ウダウダ悩んでいるだけだっただろうから。――まさか、私が悩んでいることを知っていたわけはないだろうけど……。「ああ。今日はたまたまこの近くで用があったんだけど、早く終わってヒマになっちゃって。作家仲間に電話しまくってたの。もち、女性ばっかりね」「へえ……」「ナミちゃんに断(ことわ)られたら、今頃は別の作家さんとお茶してたかも」「ええ……?」 なんだ、やっぱりただの偶然だったのか。 作家という職業は本来、個人事業主(ぬし)であり自由業である。こういう横の繋(つな)がりはあっても上下関係はなくて、年齢が違っても対等な立場で付き合えるのだ。
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」「そうですか」 琴音先生とは一(ひと)悶着(もんちゃく)あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」 次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」「えっ、なんで!? 似合いませんか?」 私は不満を漏らした。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!? ところが、そうじゃなかった。「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」「…………はあ。そうですか」 なんか意外。原口さん(この人)にもそんな、〝